昭和五十七年十月十五日 朝の御理解


御理解 第八十八節 「昔から、親が鏡を持たして嫁入りをさせるのは、顔をきれいにするばかりではない。心につらい悲しいと思う時、鏡を立て、悪い顔を人に見せぬようにして家を治めよということである」


 今朝目覚ましのおかげを頂いて、いつものように身つくろいをしてこちらへ出て来るんですけれども、私は必ずベットのカバーをきちっと掛けて来るんです。ところが今日はそのベットのカバーを掛けるのがきつくて、よう掛けれなかった、まあ今日はそのまま出て来る道々も、やっとな思いで出てまいりました。
 こういう例えば今日の御理解を頂いて、こんなに身体がきつい時に、やっぱりきついからというてきつい顔を人に見せてはいけないと思うですけれども、やはりきつい時はきつい。それが身体全体にこう、表れてまいります。
 それでもやっぱり、まあ、いよいよ明日が峠ですから、明日の峠だけは越させてもらわんならんと思うて元気を出して、それから御祈念に入ります。控えで三十分、今日などは丁度御神前で約一時間半ですから、二時間余りの御祈念を一心不乱に、まあお願いを致します。「身体がきついから、どうぞ身体を楽にして下さい」というようなことは一言も願いません。
 ただ、まあ言うてみると、人が助かることさえ出来ればという祈りが、まあ二時間、こう続けられます。そすと、こう、御祈念を終わった頃、今こうして座らせて頂いて、何かこう、生気のようなものが、こう感じられて、まあ自然ではありましょうけども。ならこれ皆さんに、もうきつうしてきつうしてたまらん。もうベットのカバーもかけられんごときついというような顔を皆さんに見せんですむような気がするんです。
 ですから、どんな場合でも、これは健康だけのことじゃない。どんな場合であっても、やはり人に悪い顔を見せぬようにという信心修行はいよいよ出来なければならん。「○○は合楽理念をもってする他はない」とこう言いもし、言われております。なら、私自身も、なら現在の健康状態なことをね、どうあることがこの健康管理を合楽理念に基づいてすることかと、一生懸命御祈念をして、どうぞ楽になりますようにというとではないと思う。
 やっぱり、めいめいの御用が御用にならなければならないとこう思います。で、今日はまあ御無礼して御祈念を簡単にさせて頂くということもなしに、そこへ打ち込んだ御祈念をさせて頂いとるうちに、まあ悪い顔を見せんですむような、すっきりとまではいかんけれども、そういうおかげが受けられる。
 昨日から私の健康状態のことを勢祈念を一時の御祈念に併せて御祈念をして下さっておるということでございます。まあ沢山の人の祈りを受けておるわけです。私のどうぞ、まあ親先生の健康を祈って下さるからには、やはりそれに対する修行もまたさしてもらわなきゃならん。ただお願いしますというだけではいけん。折角お願いをさせて頂くならば、神様に通う、いや通うだけではない。神様が喜んで下さるような修行に、各自各自が取り組んだら、私もおかげを頂くでしょう。それを祈って下さった皆さんも力を受けることでしょう。
 昨日、林美代子さん、ここでお届けをされますのに、十三日会の日に親先生の身体のことを、容易ならぬことを聞かせてもらって、どうかこれは健康になって頂かなきゃならん。その為には一つ本気で黙って治める。しかも黙って治めるだけではない。今日の御理解がそうですよね。この御理解はこの八十八節から頂いた御理解です。黙って治めると。ただ黙って治めるというのではなくて、にこやかな黙って治める修行を本気でさして頂こう。親先生病気平癒の為の修行としてこれだけはさせて頂こうとそれをしきりに思うて、そのガソリンスタンドで車にガソリンを入れてもらっておられたら、丁度目盛りが三十九の所で止まった。
 もうその時の感動ち言うたらございませんでした。というお届けがございました。どうぞ親先生が健康になりますように、もうその為には、私が今迄黙って治める黙って治めるという修行をして来ましたけども、なかなか徹底出来ませんでした。これを徹底して黙って治める修行に取り組みます。しかも黙って治めるというだけではなくて、にこやかに治められるおかげを頂きますと思うておったらね、ガソリン、目盛りが三十九の所で止まった。
 神様が御礼を言うてござる気がしたと言われます。神様から御礼を言われておるね。親先生のことを祈っておるということ。親神様が「ありがとう」と言うておられると思うて感動致しました。もういよいよもって黙って治めるだけではない、にこやかに黙って治める修行に取り組ませて頂くというお届けがございましたがね。それこそ。私もおかげを頂くでしょう。
 そういう真心をね、沢山のお供えをしてどうぞ親先生の健康をとね、毎日日参をして、親先生の御祈念をさしてもらうということもありがたいですけれどもね、自分自身が今迄出来なかった教えに本気で取り組んでね、もうそれこそ神様から御礼が言うて頂けるような修行に取り組むということになったら、私もおかげを頂くでしょう。林さん自身もそのことを以て力を受けられることでしょうね。神様からサンキューと御礼を言うておられるような思いにかられて昨日は御礼お届けがございました。
 皆さん、私もひとつ、皆さんに悪い顔を見せんですむようなね、合楽理念を以てする健康管理とはこうだというようなおかげを頂きたい。皆さんもまた、なら祈って下さるからにはね、皆さんもおかげを頂いて下さり、皆さんも力を受けて下さる。あん時に今迄出来なかった修行がこうやって出来たというような修行を身につけて下さるなら、それこそ永世までも有難いおかげのきっかけを頂くことになりますですね。
 昨日典楽会の方達がみんなここへ出て来まして、今日の前夜祭に大楠公の歴史舞を奉納することになって、大体御大祭にということでしたけども、ちょっと時間が長くかかりますのでということであった。御承知のように大楠公というのは楠正成(まさしげ)と正行(まさつら)の桜井の駅での別れの、まあ劇なんです。これはちょっとジンクス的なものがあって、ああいう大きな舞ですから、大きな教会でなからにゃ出来ませんね。それがあのう、そういうような親子別れになるような事実がいくつかあったことですよね。ですから、そういうことを私が十三日会の時にちょっとお話を致しました。
 どうもお酒が白のついたお酒ばかりが集まる。白辰が集まってくるかと思うと、白鶴が来る。これはいよいよ容易ならぬことを神様はお知らせ下さってあるなあという意味の話を十三日会の時に致しましたから、皆さんがまあ打って一丸になって、昨日からああした御祈念が始まったり、また典楽会の人達はこれは折角稽古してきたけども、今度の御大祭にこの舞を奉納することはやめようと言うてここにお届けに来たんです。だから「そげなことはいらんばい」ち私が申しました。
 これは皆さんそうです、たとえば有難いおかげが受けられるというお知らせを受けましてもね、ほうこれは有難いおかげが受けられると言うて、まあ言うておるだけではおかげにならん。神様がこういうおかげも下さろうとしておる。さあしっかり頑張れよ。
 久留米の初代が毎年毎年借金をしておられる。その利払いだけで過ごしておられるという時代であった。ある正月の元旦におとそを頂かれる時に、ふと思われたと。こう、杯を持って、ああ去年も利払いだけで終わったが、今年もまた利払いでというようなことを思われたら、頭上に声があったね。もうまさしく四神様の声であったね。『八百俵の徳を授ける』というお知らせであった。奮い立たれたわけですね。よし神様がお徳を下さる。なら八百俵の徳、その時分のお米一俵が十円だったんです。八百俵ということは八千円ということ。丁度借金をしておられた金額が八千円であったということですね。八百俵の徳をさずけて下さる。八百俵の言うなら八千円の借金を支払うようにしてやろうとはおっしゃってない。「八百俵の徳を授ける」とおっしゃる。
 神様が下さるなら本気で頂く気構えを作ろうと言うて九州中出社関係に四神様のお徳を説いて回られたということです。何年間も利払いだけであったのが、その当時久留米の大きな商売人といったような方達が次々とお参りをして、次々とおかげを頂いて、一年のうちに利払いだけしか出来なかった借金を払われることが出来たという話が残っておりますね。「八百俵の徳を授ける」と言われてもです。こちらが受け心を作らなければ頂けないことが分かりますよね。
 だからこれは、なら、反対にです。『もうお前の寿命は今年ぎりだぞ』とお知らせを下さるからにはね、さあここへ一つ新たな命を頂く為の本気での信心をせよと、まあ言って下さるようなもの。悪いことのお知らせでもね。その悪いことのお知らせがね。悪いお知らせが有難いおかげに変わって行くようなおかげ。
 私が十三日会の時、皆さんにそういうまあことを聞いてもらったということは、私の心の中にね、これは私が一つ本気で頂き、そうでもあろうけれども、もう例えばなら寿命なら寿命でもあろうけれどもね、ここん所にまた新たな命を頂かせて頂こうと意欲する元気な信心がそこから出けて、またあらたな命を頂き、あらたな御用が出来る。そういうようなひとつの確信のようなものがあったからこそ、皆に聞いてもらったんです。
 私はそれで落ちこみませんね。ですから有難いお知らせであっても悪いお知らせ、お知らせを下さるからには、「用心せよ、こういう悪いことになるぞ」とね。「しっかり頑張ってくれよ。こういうおかげもやろうと思とるから」と神様がおっしゃったなら、ならそれをいよいよ受けようという構えを作らなければダメです。そこから、言うならばおかげになる。神様が下さろうとするおかげを水も漏らさん構えをもって、頂き止めることが出来るのですね。
 そういう意味で、私は典楽の方達に、いや折角ね。大楠公、私の信心はもう大楠公です、大きくなる為には、もう正しく茂らなきゃだけ。小さいたとえばどんなに年数をくっても大きくならない木がありましょ。ところが楠の木という木はね、ああいう巨木と言われるような、なんぼでも大きくなって行く、合楽もいよいよなんぼでも大きくなって行くことの為に、それは正しく茂って行かな。楠の木正成であるね。それには正行、正しい行である。正しい行をもってすればね。そこから楠の木太りのおかげもまた約束されるということになりますから、成程きついです。今言うように布団が自分で上げられん位にきついですね。けれども、なら私がです。もう人が助かることの為にと。まあ一生懸命御神前に向かわせて頂いておると、どっからかこう生気のようなのが湧いてくるね。
 昨日はあんまり、昨日お医者さん、浅野先生来て下さる。で、昨夜、戎浦さんおいで頂いて、「身体がこんなあれしとるから輸血をなさったら元気になる」とこう言われる。それで私は申しました。「記念祭が終わってからいっちょして下さいね。記念祭までとそういうことじゃなしに、神様のおかげでお祭りを奉仕したいというわけなんですね。
 ですから、私もそこに自分では元気まぎらすというて、自分で元気出そうったって、やはり神様へ一心に向こうて、神様がおかげを下さる。神様がそこに何とはなしに生気を下さる。で、今朝もこうやって御用が出来ておる。お話もさせて頂いておる。今日は人に悪い顔を見せるなと。なかなか難しいことである。もう本当にきつい時にはね。それが態度にも顔にも出てくるけれどもね。それだけではいかん。
 その心で神様に向かう時に、まあ生気なら生気を頂いて、それこそ林さんじゃないけれども、黙って治めるということでもなかなか出来ませんでしたが、一つ本気でそれが親先生の健康回復のおかげの元になる修行になるなら、それを本気で、しかも黙って治めるだけじゃない、にこやかに黙って治めよう。もういよいよ人に悪い顔を見せんですむということになるんじゃないかと。そこに、なら私もおかげを頂くならば、林さん自身も力を受けられることでしょうね。
 皆さんそういう修行、そういう祈りをもって私のことを願って下さるなら願って頂きたい。私も助かる。皆さんもそれによって力を受けて下さるような。しかもそれがね、神様がサンキューと御礼を言うて下さるような、ひとつ神様に喜んで頂くような信心修行を身につけて頂きたいと思いますね。 
どうぞ。




 昨日ですね、今度の記念祭の記念出版にこんな素晴らしい御本が出来てまいりました。「一切神愛論」と。
 昨日これを神様に、若先生が持って来たからお届けさしてもらいよりましたら、信心の『信』という字、それから『伝』にんべんにものを言うという、略するとそうなるでしょ。にんべんに言うと書いて、信心の信という字は言葉の言うという。して伝えるという字はにんべんに云うという字。
 ほう合楽で皆さんが頂いておる御理解。しかも今度の「一切神愛論」というのは、天地の親神様が今までかつて、それこそ前人未到のところを教祖金光大神が開いて下さって、それをなら、私を、その後を歩かせて頂いて、なら、こういう結集された御本が出来た。 人に言う、初めて神様がね、人間が人間らしゅうね。これを行じれば「簡単です、明瞭です、おかげが確かです」と言われるようなおかげが頂けれる。言うなら生粋の言葉がここにのっておる。初めて神様が人間氏子に心を吐露してお話し下さった話が、この「一切神愛論」である。
 私それを頂いてね、本当にあのう、もうとにかくどういう素晴らしいことであっても、その言われること、伝えて下さることをね、私共が伝え聞きね、言われることをよく本当に、今の林さんじゃないけれども。本気でそれを行じようという気にならなければね。なら、一切神愛論であっても、成程一切神愛だなという体験もおかげも生まれて来ないです。そういう意味で、今度のこの御本はね、もう神様の今迄かつて誰にでも言うたことのなかった、教えたことのなかったことを教えて下さっておる御本だと思うて、皆さんこれは今度参拝者全員これを渡るそうですが、そういうお知らせを昨日頂きました。
 だからこれは頂いた、読んだだけじゃいかん。本当にね、それを実行しようという気にならなければ、どんな簡単なことだって、明瞭に説いてあってもね、もう自分の信心の血肉にしなければだめだということが分かりますね。昨日そんなお知らせを頂きました。 どうぞ。